三津浜インタビュー

三津浜活性化はライフワーク(後編)

三津浜インタビュー Vol.1-2
フジオカ時計店会長 
藤岡敏明さん 妻・和美さん

  • 藤岡敏明
  • 藤岡和美
  • 宮内香苗

「松山西部地域開発協議会」「平成船手組結成」を立ち上げて活動する

テナントに入ったことについては、藤岡さんがことさら社長さんらにアピールしたということではなく、それまでに繋がっていたご縁がものを言ったという感じなのですね。
勢いのある時代を経て、今では、商店街と名の付くところはどこも、空き店舗が増えて、いわゆるシャッター商店街になっています。ここ、三津浜も例外ではなくて、藤岡さんはその変化を見てこられたんですね。

商店街といっても、寄せ集めでしかないからね。
一応、三津浜も組合ができているんよ。一時は、僕も、駐車場を何とか整備しようと、組合に呼びかけたんやけどな、それは無理やったんよ。具体的な話まではもっていけんかったね。

そんな中、三津には「松山西部地域開発協議会」や「平成船手組」が結成されたんですね。
「三津には、どうして、そんな団体があるの?すごいね。」って、私もいろいろなところで言われるんですよ。藤岡さんは、初期から中心メンバーでおられたようですね。その設立のいきさつについてお聞かせくださいますか。

西部開発は、ダイエーコーノ会長の河野幸男さんが中心になって設立したんよ。
河野さんが言うとポンとできたな。河野さんはワンマンやったな。でも、そんなワンマンがおらんとできんからね。
他にも、地域を支えている力のある経営者らが中心におったからね。恵美須神社を建て直したのも河野さんがリードして、三ツ浜汽船株式会社の先代の渡部優さんらが尽力してできたんよ。

当時の三津浜は凄かったんですね。

一時は、「協議会」という形では限度があるから「株式会社」を作ろうとしていたんぞな。「松山西部開発株式会社」にして利益を上げていこうと考えていたんよ。当時の丸善石油の広い土地を借りて、サーカスも呼んで興行したりな。ま、いろいろ揉めることもあったけどな。

創設当時は機関誌も発行しておられたようですね。読んでみて当時の三津浜の勢いがよく分かりました。

そうそう、あのころ、西部開発には資金があったからね。何でもできよったんよ。ただ、河野さんは、酒を飲む会だけはやめてくれと言うとったな(笑)。
僕は、3代目の事務局やったんよ。

その「松山西部地域開発協議会」が結成されて2年後に「平成船手組」ができたようですね。これは藤岡さんが立ち上げられたとか・・・

もともと三津浜校区には「ふるさと三津浜を考える会」というのがあったんです。地域の広報委員さんたちが集まっている会です。
その会では、何かイベントなどをするに当たって、いつも、「宮前川からこっち側、三津浜校区のこととしてしないといけない」とこだわっておられたんですね。「川から向こう(宮前校区)の人は、話に入ったらいかん、イベントにも参加したらいかん」ということをしきりと言われてたんです。視野が狭かったようです。
それで、主人が怒って、「この三津浜を思ってくれる人は、川からこっちだけにおるんじゃないんだ、いろんな人と協力していかないといけないんだ」と主張したんです。「川の向こうやこっちや言うことではなく、三津浜の活性化のために広く力を合わせようじゃないか」と「平成船手組」を立ち上げたんです。

なるほどそんないきさつだったんですね。
船手組ではどんな活動を始められたのですか。

最初は、「生活博物館」というイベントの運営や港まつりのお世話でしたね。
もともと、三津の花火大会は、最初は中島汽船が着く港の方でやっていたんですよ。商店街が中心になって、仮装行列や盆踊りをして賑やかだったんですよ。花火大会が大規模になって、今の所に移ってからは、ずっと船手組が中心になって運営していますね。

今は転勤したけど、三津浜中学校の村上典先生という先生が中学生を引き連れて花火のお世話に参加してくれてな。中学生らがようやってくれたんよ。それから、中学生は「船手組ジュニア」として毎年花火を支えてくれてるんよ。

それは、素晴らしいですね。あまり知られてないですが、この規模の大きな花火大会で、地域の団体が中心に運営しているというのは、全国的にも珍しいことだそうですね。

こんなに規模が大きくなったのはなったのは20年ほど前からや。松山では、南海放送が、井門町のサンパークで大きな花火大会をしてたんよな。でもその花火大会の運営が難しくなって困っていることを聞いたんよ。
それで僕が一人で行って、南海放送の重役らと膝を交えて話したんよな。

えっ、南海放送という大きなお城に、一人で乗り込んだということですか。

そうよ、一人で南海放送に話に行ったんよ。誰もいっしょに行ってくれんから、一人で行って話したんよ。
そしたら、本当にひーひー言ってたんよ。近くに住宅地が迫ってきていて苦情が多くなったり、高速道路ができたり、バブルがはじけて協賛金が減ったりしてな。続けるのが難しかったみたいやな。
それで僕は南海放送へ行って三津でいっしょにやらないかと誘ったんよ。市役所の観光課に行って、「南海放送が花火大会の運営でひーひー言いよるから、三津といっしょにしようやという話になりよるが、それでええかな」と言うと、市も了解したということやったんよ。

ええっ、今の三津浜花火大会の一番最初のおぜん立ては藤岡さんがされたということですか。

最後は市がしたけどな。市も最初は、また藤岡が一人でじゃんじゃら言うまゆつばの話やと思ったみたいやな。話すうちに、これは、本物の話やとびっくりしたということや。

なるほど、まさか、天下の南海放送に、三津の一時計屋さんが話を付けてきたとは市の担当の方も思わなかったんでしょうね(笑)。

花火大会が三津に来てから、南海放送は、協賛金を出してくれたけれど、その分、テレビコマーシャル代でようけ払ったわいな。うまい具合に持っていかれた感じやな(笑)。

何年か前に、今の船手組会長の渡部裕司さんを取材させていただいて、びっくりしたんです。中四国最大級と言われるような大がかりな花火大会の運営を、「平成船手組」などのまちおこし団体がやっているとは。「松山港まつり振興会」を作って運営しているということですね。
中学生もたくさん参加しているし、地域の中から大きな苦情が出ることもないと聞いて、三津浜というのはどんな地域なのだろうと驚きました。そのきっかけを藤岡さんが作っておられたということなんですね。

船手組は「みつはま生活博物館を歩こう」というイベントもしよったんよ。主催には西部地域開発に立ってもらってね。
愛媛大学の曲田清維教授の協力を得てコンセプトを作ったんよ。三津浜のまち全体を博物館に見立てて、参加者にスタンプラリー形式で巡ってもらうイベントを年に1、2回のペースで6、7年やったかな。
三津浜中学校の中学生も、お客さんを迎える側で参加してくれて、お客さんは2000人も来てくれたんよ。何年も続けたな。コロナなどでしばらくやってなかったけど、また、ぼちぼち、今のメンバーらが再開してくれとる。

続いているということが素晴らしいですね。

そんな中で、地域の人らも自分のまちを改めて見直していくんよな。そして、いままで、意識してなかった地元を好きになっていくんよ。
家の前を掃除したり、水を打ったりして、外から来る人を迎える気になるんよな。

イベントは外に向かっての発信だけではなく、地元の人たちの地域への愛着を深めるきっかけになったことも大きな成果ですね。
当時は、全国的にも町並みを活かす地域おこしに取り組む所があったようですね。

中村市長(現愛媛県知事)が2000年(平成12年)に「坂の上の雲」のまちづくりの構想の中で、「フィールドミュージアム」という考え方を出して、三津浜は「サブセンターゾーン」に指定されたんよな。
それで、僕は、当時の中村市長に「フィールドミュージアムの考え方は、三津が生活博物館として先に出したことや、パクったな」って言ったんよ(笑)。日本語をカタカナに言い換えただけぞな。

そんなことを言う人は藤岡さんの他にはいませんよね(笑)。
2000年といえば、花火大会が三津浜に移って開催された年ですね。行政も、松山にとって三津浜は大事な場所だということに気付いてきたんですね。

道後温泉と松山城だけでは弱いんよな。
このころから、三津をクローズアップして松山のブランディングに使おうという機運になってきたと思うよ。三津は、西部開発協議会や船手組や、地元で動ける団体があったんよね。それで、市も三津のことにはいろいろ協力してくれるようになったな。

西部地域開発協議会と船手組の功績は大きいですね。行政にとっては、そのような地元の団体があることは好都合だったんでしょうね。
西部と船手は協力して、バーベキュー大会もしておられますね。

最初、住吉郵便局の前でしていたんやけど、いろいろ近所の人からの苦情もきてね。それで住吉公園に移したんやけど、それでも無理があってな。そのあと、水産市場でするようになったんよ。
西部開発主催ということで実際は船手組が動いてやってるんよ。熱い中、あれはしんどいわい。

昔は7月終わりから8月の初めは毎週していたからね。本当に、よくやれたもんです。

奥さん・和美さんの支え

おたがいを見守る藤岡夫妻

いろいろな活動をしてこられたのですね。

そんな大仕事をいろいろしよるもんやから、なかなか、店で仕事をするようにならんのよ(笑)。
お客さんから「わしの眼鏡はいつできるんぞな」と言われてな。こんなことしよったら、店の客がおらんようになってしまう(笑)。

いくら弟さんがおられるといっても、藤岡さんが商売ほったらかしで花火大会のことをされるのは大問題ですよ(笑)。

ほとんど、店にいなかったですよ。

和美さんは、それに不満を言ったりされなかったのですか。
地域の活動をしているご主人の奥さんは、いっしょに協力しているとはいえ、度が過ぎると、バトルがあるとよく聞きますよ(笑)。バトルはうちもよく起こりますから・・・

もうあきらめてましたね(笑)。主人は、口に出した時にはもう動いている人だったから、こっちが口を挟む暇はなかったんです。

みんなは嫁さんがいろいろ言うんかいな。うちは何にも言わんかったな。

藤岡さん、それは、それは、当たり前のことじゃないですからね(笑)。

でも、今は、僕は結構あれこれ言われとる。旅行に行くと言ったら「それは無理があるでしょ」とか・・・

だってこんな体の状態ですからね(笑)。

当たり前です、藤岡さん。誰が聞いても奥さんの意見に賛成しますよ(笑)。

それまでは何にも反対せんかったのにな。

反対したのは唯一、市会議員に出ないかと薦められたときだけですね。40代のころですね。私はとても議員さんの奥さんは務まりませんから。それこそ商売もだめになってしまいますからね。
反対したのはその時だけでしたね。

そうだったんですね。和美さんは本当に辛抱強いと思います。
船手組の活躍といえば、花火大会や、シーフードバーベキューの他に、忘れてはならないのが、三津浜焼きを全国に広めたことですね。メンバーの皆さんは、全国いろいろな催事で三津浜焼きを実演販売しておられます。それが発展して「全国ご当地こなもんサミット」や「中四国こなもんサミット」という大きなイベントもしておられます。
その活動拠点として、藤岡さんは元フジオカ時計店だった広い部屋をずっと提供しておられますね。そこには、三津浜焼きの道具がたくさん置いてあってびっくりしました。

広い所が空いとるからね。水道光熱費込みで使い放題や。部屋代は少しは入れてくれるんよ。

船手組は、主人は、自分が立ち上げた会やから、自分の場所を使って自由に活動しようと思ったんでしょうね。その流れで、ずっと続いていますね。

結局、藤岡さんは、三津のためにこんなことをしたいと思い描いた活動を、自分の思うままに続けてこられたということですね。

そうそう、その通りです。自分でやろうと思わないことは一切しない人です(笑)。他人から言われたことは絶対しない人ですね。
でもね、私は主人に言うんですよ。船手組などの活動には「いつまでも、口を出したらいかんのよ」って。

だいぶ、おとなしくなったがな。

「自分は良かれと思ってすることも周りには迷惑なこともあるんやからね」って、言うんですけれど、次々とやりたいことがあるようです。
主人が中心で動いていたころは、すごくいい時代だったでしょ。経済も回っていたので、自分が店を抜けてもある程度は平気な時代だったんですね。今はね、皆さん、なかなか仕事以外のことに手が回らない時代になっていますからね。

三津浜活性化は広い視野で取り組む

旧みつはまレトロ内にて、藤岡夫妻と談笑

和美さんのおっしゃることもよく分かります。藤岡さんと和美さんはアクセル役とブレーキ役で、両方あってこそです。藤岡さんが中心になって活動しておられたころは、勢いのあるいい時代だったんですね。
話をまた商店街のことに戻しまして・・・この三津浜商店街もかつては賑やかだったんですよね。一番賑やかだった頃はいつごろですか。

一番賑やかやったのは、アーケードができたころやな、昭和38年(1963年)から45年ころかな。店も145軒あったんよ。今はもうアーケードはなくなっているけど、昭和55年(1980年)に2代目のアーケードができたんよ。
うちがダイエーコーノに店を移した平成8年(1996年)ころから、急に店が減ってきたんよな。90軒くらいになったんや。今は、昔からの店で営業しとるんは3軒か4軒しかなくなったな。

28年前、平成8年に恵美須神社が建て替わったとき、NHKの密着取材があったんですよ。そのときに、商店街の空き店舗をいかにも寂れてきた商店街として番組を編集してあってね、商店街の人からたくさん苦情があったそうです。そのころから、減ってきてましたね。

そうしますと、恵美須神社が建て替わる時には、また、この商店街や地域が賑やかになるようにという思いもあったんですかね。

そうよ、この通りは恵美須神社の参道やと。商店街を門前町としてまた賑やかにしたいという思いがあったな。商店街の入り口に赤い鳥居を建てようかという話もあったんよ。でも、ちょっと神社は遠かったので実現はせんかった。

ちょうど、そのころ藤岡さんがダイエーコーノに移転されたので、あれだけ盛り上げようと一生懸命にやっていた人だっただけに、商店街が見捨てられたと感じた人もいたということでしょうか。

そうかも知れんな。でもな、通りの1本だけ良くなってもしかたないんよ。三津一帯、ウォーターフロント全体が良くならないと。西部地域開発協議会等では、当時はそんな機運が盛り上がっていたんよな。

藤岡さんらは広い視野をもっておられたんですね。
そんな考え方をもっておられたから、お店の経営を息子さんに引き継いでから、平成26年(2014年)に「三津浜レトロ」という交流スペースを開いておられたということですね。

10年前、レトロを開設したころに、主人は「商店街というくくりではなく、三津全体で組合のようなものを作ったらどうか」という構想を提案したんですが結局まとまらなかったですね。

ウォーターフロントの海岸線も雁木造りで趣きがあったのに、コンクリートで固めてしもうたんよ。残念やな。僕らは、そのころに、活性化に取り組む地域を見に行ったりしてな。あれこれ考えとった。

私も、いろいろいっしょに見に行きました。素晴らしい所を見ることができて楽しかったですよ。三津には古民家もあるけれど、点在しているからね。もうちょっとかたまっていたらいいのにね(笑)。

藤岡さんは次々とアイデアを出しておられますね。「三津浜地域おこし先発隊長」のエネルギーは衰えていませんね。
フェイスブックで発信したり、スマホを使ってインターネットも利用したり、藤岡さんのお歳で、ネットを活用しておられるのは珍しいですね。

ほうかな、4、5人で「今日、飲むぞ」っていう連絡もさっとできるし、便利やからな(笑)。

中学生や移住者に三津の歴史を伝えたい

お二人で半被を用意する藤岡夫妻

インターネットの活用はますますなくてはならないものになっていきますが、そんな影響もあってか、三津の古民家や空き店舗の活用などについては全国から問い合わせが入っているようですし、県外からの移住者も増えていますね。それについてはどのようにお考えですか。

三津には今いろんな人が店を出しとるけど、気ままに店を開ける感じやな。「商い」は「飽きない」やからね。やっぱり、飽きずに続けんといかんな。
移住してきた人や今の若い人は、三津のことをよく知らないんよな。それで、三津の歴史を伝える機会を取りたいと思うとるんよ。まずは、僕は、三津浜中学校1年生を鍛えるつもりや(笑)。
でも、僕は、病気してから、声がはっきり出にくくなってるからね。資料を渡して「読んどけよ、試験に出すぞ」って言おうかなあ(笑)。

したいしたいと言っているのですが、今の主人の声では、中学生はよう聞かんと思うんですよ。

昨年、三津浜小学校で出前授業をしたときのように、藤岡さんの代りに話してくれる、やる気のある大学生と組んでされるというのもいいのではないですか。
方法は検討しないといけないのでしょうが、中学生に思いを託すという活動もしていきたいと考えておられるのですね。内容的にはどんなことを伝えたいと思っておられるのですか。

町の歴史とか、三津に生きてきた人の思い、三津の人間の「はしかさ」やな。
伊予鉄に対抗して、三津の有志が集まって松山電気軌道という会社を立ち上げて、電車を走らせていたという事実な。三津の築港にまつわる話もあるな。

築港についての歴史を知ると、政治とは怖いものだと思いますね。一夜にして、あれだけ盛り上がっていたことがひっくり返るんですからね。

私も先日、三津浜港築港の顛末を知って、そんなことがあったのかと驚いたんです。

子供たちが、そんなことを知ってくれたら、「僕が住んでいる三津というところは凄い人がいたんだなあ、三津は素晴らしいとこだなあ。」と感じてくれるんやないかな。そうなったらええな。移住者にも知ってほしいな。

地域の子供たちの教育は大事な事ですね。

子供は、平凡な子がええ。灘高行って東京大学行くような子じゃなくてええんよ。

あんまり頭のいい子は、地元に戻ってこないですからね。商店街でも、どこでも、そうなんだけれど、子供に高学歴を求めてきたけれど、そうしたら、跡取りがいなくなるんですよね。

おっしゃることはよく分かります。地元で普通に楽しく生きていけることの大切さをもっと見直さないといけないですね。
お二人は3人の息子さんがいらっしゃって、長男さんと次男さんが、フジオカ時計店を継いでおられるのですね。船手組の活動などにも参加しておられますね。

小さい頃から、みんなでワイワイ集まって楽しそうに地域を盛り上げる活動をしていた父親を見て育ちましたからね。自分も地元で楽しくやれると思ったんでしょうかね (笑)。

結婚50年、これからも二人三脚で

にこやかに微笑む藤岡夫妻にこやかに微笑む藤岡夫妻

その原点とも言えるお二人のなれそめを聞いていいですか(笑)。

うちの嫁さんは、三津浜信用金庫の窓口に居ったんよ。なんでこんな不細工な子が窓口に居るんかや、可愛そうにと思ってうちに来るかと言うたんよ。

藤岡さん、照れ隠しでしょうが、それは、レッドカードです。奥さんが笑っておられるので、信頼関係の中で成り立つ言葉でしょうから、私も見逃しますが(笑)。
大変失礼な言い方ではありますが、藤岡さんについてきてくれる奥さんは他にはいませんよ。受け付けで仕事をしている和美さんを見て、この子がいいなと思われたんですよね。

まあな。

決め手はどんなところだったのですか。

そこまで、言うんかな。いやあ、誠実そうな子やなと・・・

初めて聞いた(笑)。結婚式の当日、藤岡の家族全員が、式の始まる10分前に来たんですよ。式場の人がおろおろしてね(笑)。待ってる方は、「間違いないよね、今日よね」って(笑)。

藤岡さん、お聞きしたけれど書けないことも含めて(笑)、エピソードを聞けば聞くほど、奥さんあっての藤岡さんです。

そうやなっ。文句も言わずにな。ようついてきてくれたな。何でも僕は好き勝手にしとるのにな。

自覚されているのは素晴らしいことだと思います(笑)。今でも仲良しですよね。

うん。

今年で50年、金婚式を迎えました。いろんなことがありましたよ。今思えばよくやれたなってびっくりします(笑)。
でも、普通に主婦をしていただけではとうてい体験できないおもしろいことも一杯あったんですよ。

藤岡さんといっしょに歩んでこられたからこその人生の醍醐味ですね。

この男もな、いつも真ん中に居らんと気がすまんのよ。
すみの方に置かんといてくれよ。

それがいかんのですよ(笑)。

奥さんからチクリと一言ありましたね(笑)。
藤岡さんは、ずっと、三津のことを大きな視点でとらえて活動してこられたのですね。話せば話すほど、いろいろなことが出てきてびっくりします。どうかこれからも、「トシ&カズ」の名コンビで、楽しくお元気に、三津の明るい未来を描きながらお過ごしください。
今日は、いろいろとお聞かせいただき、本当にありがとうございました。

※この記事はインタビューに基づき執筆されたものであり、登場する内容はインタビュイー(回答者)様ご個人の体験や意見を反映したものです。