三津浜インタビュー

三津浜活性化はライフワーク(前編)

藤岡夫妻ご近影

三津浜インタビュー Vol.1-1
フジオカ時計店会長 
藤岡敏明さん 妻・和美さん

  • 藤岡敏明
  • 藤岡和美
  • 宮内香苗

明治43年創業、115年を超えるフジオカ時計店の3代目

三津浜で、長年「フジオカ時計店」を営んでおられた藤岡敏明さん。自他ともに認める「三津浜地域おこしの先発隊長」です。この10年は、商店街にあったフジオカ時計店の旧店舗を改装して「三津浜レトロ」という交流スペースを開いておられました。
昨年、体調を崩されましたが、現在は回復しておられます。療養のために三津浜レトロは閉じておられますが、今は、そこを改装して、藤岡さんの事務所兼療養スペースにしておられます。今日はそこにお邪魔しました。
藤岡さんが長年取り組んでこられた、三津浜活性化の取り組みを中心にお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。 

はい、ようきてくれました。

よろしくお願いします。

藤岡さんは三津のお生まれですね。

昭和24年生まれの75歳よ。祖父が始めた時計屋に生まれて、僕が3代目です。時計屋は120年近くになるな。
僕が小さいころは、店に内弟子もおったからね。その内弟子に守りをしてもらってたんよ。小さい頃から、じいさんや親父のすることを見ていたのでな、旋盤回してガラスを切ったりして細かいことをするのが大好きやったんよ。

世間ではよく3代目が店をつぶすと言われるでしょ(笑)。
そうなったらいかんと思って、4代目の息子に譲るまではとがんばってきました。

4代目が営業している老舗は、大変貴重な存在ですね。藤岡さんの略歴をもう少しお聞かせください。

地元の三津小学校、三津中学校を出て、商売を継ぐことが分かっていたので、高校は松山商業に行ったんよ。今はどうか知らんが、昔は、留年がなくて勉強せんでもよかったからな(笑)。
松商卒業後は、まっすぐ店を手伝うのは嫌やから、松山商大に入ったんよ。家におったら手伝わされるでしょ。それで、出かけて遊ぶばっかりや。友だち4人おったら麻雀、3人おったら喫茶店行っとる、2人おったらパチンコに行っとる・・・
でも、店を継ぐ身なのに遊んどってもいかんという自覚があってな、昼間の4年制から夜間の短大に変更したんよ。昼は店を手伝うということやな。

昼はお店を手伝いながら、短大を卒業されたんですね。

それで親父は、やっと敏明が店に本腰を入れるかと思ったようやだけど、そうはいかんわな(笑)。
それから、自分でチャッチャと段取りして、JOWA(ジュエリー・オプティカル・ウォッチ・アソシエイト)という、大阪の眼鏡や時計の専門学校に入ったんよ。神戸の店に行儀見習いで入って、そこから電車で通ったね。父親は、あきれて、反対することもできんかったぞな。

それは、よくお勉強されたのですね。

特に習わんといかんことも無かったんやけどな。僕はもう(そこで習う)基礎的なことは全部やれよったからね。眼鏡のことも分かっとるし、時計も直せるしな。
勉強したいと言うよりも、とにかく僕は家を出たかったんやね。母親と相性が悪くて喧嘩ばかりしてたからな。それが、結局、初代が体が悪くなって、その学校は4か月ほどで辞めて夏には帰ってきたんよな。それからはまじめに店で仕事をすることになったんよ。

そのときは、フジオカ時計店は藤井町にあったんですよ。昔は、そちらの方が栄えていたんです。

職人気質(かたぎ)の父親に反発しながら商売を広げる

にこやかに微笑む藤岡夫妻にこやかに微笑む藤岡夫妻

それでは、お店で、眼鏡や時計の技術をさらに磨かれたんですね。

別にね、磨こうと思わなんだね。僕は職人というのは性に合わんでな。
うちの父親を見よったらな、お客さんの相手はしやせんのよ。時計のねじを立て始めたら、10分くらいかかるんやけどな、それをし始めたら、お客に来られるのは嫌なんよ。せっかくねじが立ったんやから、「締め上がるまでは黙って待っとれ」という感じなんよ(笑)。

職人気質のお父さんですね。

そうやな。夜中にガバッと起きて「今日一日直していた時計の不具合の原因がひらめいたんよ。今からやらないかん」と言うて仕事をするんよな。

お義父さんは本当の職人さんでしたね。

そこまでしないと食えないと言うんでもないんよ。自分が思いついたら、やらずにはおれんのよ。その思い一筋なんよ。
でもね、商売は物を売らないといかんのよ。売り上げを作らんといかんのよ。そんな親父には僕は何かと反発してな。

父と息子は、いろいろあるものですね。

そうこうするうちに、昭和55年に、住吉1丁目の敷地(みつはまレトロだった建物の隣)を売りたいという同級生がおってな。それを買おうという話になったんよ。ちょうど昭和55年(1980年)の3月に商店街にアーケードができるということになったころやな。
その、アーケードの建築費も、この町におる限りは負担しないといかんときだったな。お金がたくさん要ってしんどいことよ。それで、新たに土地を買うのは大変だと、家族でもいろいろな話が出たんやけどな。
なんやかんやでちょっと金ができたこともあってな、買おうかということになったんよな。そしたら、銀行も「お金を貸す」というもんやから、あれよあれよという間に大借金よ。

それは、大仕事ですが、おいくつのときですか。

32歳よ。まだまだ若造や(笑)。

もう子供も3人いたんですよ。

うわあ、それは、大変。銀行にたくさんのお金を借りて、アーケードができたばかりの商店街にお店を新築移転して、さあ、これから、商売に精を出さないといけないと。

嫁さんが、ずっと、経理をしてくれたからね。

商店街に店を移転してから、経理をするようになったんです。

ここをつぶしたら大ごとやからな。

藤岡さん、他人事のような(笑)。

毎月、月末越したら、「やれ、よかった。正月が来た(みたいや)」って言ってたな。貴金属を扱っとるからね。先行して、高額の物を仕入れとるから、毎月、支払いが滞らないようにするのは大変よ。

悠々と余裕でお商売をしてこられたのかと思っていましたが・・・

いえいえ、自転車操業ですよ(笑)。

扱ってるのが高額のものやからね。回転はよくないけど、どうしても手元に現金が要るんよ。「月末までにあと100万作らんといかん」とかね。

本当に大変でしたよ(笑)。

和美さんは3人もお子さんを育てながらですからね。

子供は、みんな保育園に預けていましたね。なんとか、銀行の借金が減ってきたと思ったら・・・

そうこうしているうちに、家が狭いので建てようと考えたんよ。銀行に言ったら、また「貸す」って言うんよ。「貸さん」と言うんだったら僕も考え直すのに「貸す」って言うからね。それじゃ、建てようと。

頑張って返済していたら、また、新たに借り入れが増えるんですよ。

住吉商店街組合の青年部長として商店街を盛り上げる

藤岡敏明さんご近影

それは、考えただけで胸が苦しくなってきます。
そのころ商店街はどのような様子だったのですか。

商店街振興組合というのがあって、各町から、理事が出とってな。僕は、当時店があった藤井町から理事に出ていたんよ。
商店街の理事は、歳取った人が多かったんよ。その中に入って、僕は年が若いから、一人がワイコラワイコラ言うてやってたんよ。そしたら「あれはうるさいけん青年部長にしとけ」となったんよ。それでますますワイコラやってな。
理事長は、かわいそうなくらいやったんよ。僕がいらんことを言うんじゃないかって警戒しとったね。

若い頃から商店街の中心メンバーとしていろいろやっておられたんですね。

そのころいっしょにやりよったのが風月堂の後藤君。今でも、後藤君が言うには、「藤岡さんがジャンジャラジャンジャラ言うから、僕はもうどないしょうかと思うとったんよ」とな(笑)。
商店街の中では、いろいろやり過ぎて、今だに僕は嫌われてるんよ(笑)。

当時の世代間ギャップもあったんでしょうね。

そんなこんなしているうちに、商店街の店がだんだん減ってきたんよ。
当時、商店街には、洋服屋、呉服屋、靴屋、時計眼鏡屋、カメラ屋、という買い回り品の店がたくさんあったんやけどね。それが、八百屋、乾物屋といった、小さな商圏でも成り立つ最寄り品の店が多くなってたんよ。
当時の商店街は日曜日が休みやったけど、買い回り品の店がある商店街はそれではいかんのよ。僕らは、お客を呼んでくるのが仕事なのに、「日曜日が休みでどないするんぞ」ということよ。それで、僕が言い出して、ジャンジャラジャンジャラもめて、日曜日は営業日になったんよ。

今は商店街は水曜日がお休みですが、日曜日が定休日の頃があったんですね。

日曜日を営業日にした頃、商店街で「三日市」を始めたんよ。
八幡浜の八日市や直方の五日市、いろんな所に視察に行って、三津は毎月三日を「三日市」にしたんよ。
当然、三日が日曜日に当たるときがあるわな。理事の中には「日曜日に当たったらどうするんぞ」と言う人がおったから、「それはやらんといかんやろ」と僕は言うたんよ。そしたら、「そんなときは代休をくれるんかな」と言うんよ。「商店街の理事さん連中が代休をくれとはどんな考えぞ、恥ずかしいことや」と僕はまた喧嘩したんよな。

当時、商店街の理事さんの中には、商店街を活性化しようという意識はなかったんですか。

意識はあるんだけど、いざ、自分の休みが飛ぶとなると、渋っていたんよな。そんな中で、三日市を毎月よう続けてきたわな。
チラシも印刷して、いろんな企画をして、この街に人を寄せようとしたんよ。僕はその癖がいまだに抜けんみたいやな(笑)。
この住吉1丁目の町内会には、当時いくらかお金があったんよ。それを有効に使って子供らも楽しめる催しをして人を呼び込もうということよ。それも、住吉の子供だけやなくて、三津全体の子供らがみんな来て、喜んでくれるようなことをしようと提案したんよ。

三日市をしてお客さんは増えましたか。

増えたね。3倍くらいになったこともあるしね。売り上げも、当然増えるんよ。
5年くらい続けたよ。夜市も賑やかにしよったんよ。店主が工夫して手作りでいろいろやってな。自分でトウモロコシ仕入れてきて、自分で火をおこして焼いて売る、金魚すくいも自分で金魚屋から仕入れてきてすくわせる。
自分でするから安くできたんよな。安いと子供も安心して遊べるんよ。

子供がいろいろ楽しんで、親の方も安心して子供を夜市に出すことができたんじゃないですかね。

それは、昔から地元の人たちと繋がっている店主さんが、あれこれ工夫してやっておられたからこそでしょうね。

そうそう、そうなんよ。うちは、くじ引きをしていたんやけどな。
中には、自分のお目当てのものが出てくるまで、むきになって何回もくじを引く子もおるんよな。「もう止めたら」と言っても止めんのよ。しまいには泣き出してな、「ほうかほうか、そしたら、もうこれあげるけんの」と言ったりしてな(笑)。

そんなこともあったねえ。懐かしい。

商店街にふれあいがあった時代なんですね。そんな催しを続けてこられたんですね。

そうこうするうちに、この場所(みつはまレトロだった所)を新たに買うたんよ。隣の建物で、時計と眼鏡をしていたんやけどな。ここに新たに店を作って弟に時計の部門を任せることにしたんよ。弟も独立させにゃいかんと思うてな。弟はのんびりしとるからね。今は僕の息子の4代目にこきつかわれとる(笑)。
そやけどな、何代も店を続けるには、一人じゃできんのよ。3代目は私と弟がおったけんね、私が港祭りじゃ何やらじゃ言うて、店を留守にしても弟に任せられるでしょ。その点はありがたかったんよ。
4代目も長男と次男が二人でやっとるからね。助かるんよ。5代目はどうなるかいな。

5代目はまだ育ってないよ(笑)。孫はまだ小学生やからね。
それまで店が続くかな(笑)。

地域活動で培った人脈によって大型スーパーに出店する

藤岡さんご夫婦とインタビュアーの宮内香苗さん

今は、フジオカ時計店は「セブンスター三津店」にありますが、その前は、今のラムーの場所にあった「ダイエーコーノ(ピコア21)」に店舗を構えられた時期がありましたね。それはどんな経緯で移転されたのですか。

ダイエーに入ったことについては、商工会議所の指導員らに「どうして入れたんですか」って訊かれたね。それで「知らんぞ」って(笑)。
「ふるさと三津浜を考える会」や「平成船手組」をいっしょに作った仲間に、ダイエーコーノ(河野興産)の社長の河野隆幸さんがおったんよ。いっしょに地域を活性化する活動をしていたからな、河野さんは、僕の気心は分かっているし、はしかいことも分かっていたんよな。河野さんが眼鏡をうちで作ってくれたんやけど、とても気に入ってくれて、これは合格やと。そんなことで、出店しないかということになったんよな。

河野さんは、ダイエーコーノ(ピコア21)ができるときに、商店街の人たちに、テナントに入らないかと声をかけておられたんだけれど、商店街の人は誰も興味を示さなかったんです。

藤岡さんが見込まれて、テナントとしてにフジオカ時計店を構えることになったということなんですね。

そういうことやな。でも、商店街の人の中には、うちを恨む人もおったんよ。
商店街を捨てて出て行ったと思われたんよな。

今でも、多少のしこりは残っていますね。そんなつもりは無かったんだけどね。子供を育てるのに、なんとか新しい店舗で頑張っていかないといけないと思って、決断したことなんですね。
ちょうど、恵美須神社の社殿が新しくできた年でしたね。平成8年、28年前ですね。商店街の店も、まだこの時は続けていたんですよ。主に私がお店をしてました。あのころは商売もおもしろかったですよ。

勢いがあった時代なんですね。
その後、現在の、セブンスターに移転されたのですね。それはどういう経緯だったのですか。

ダイエーコーノができる前に、住吉2丁目のパチンコ屋跡の広い土地を利用して大きな開発の計画があったんよ。
セブンスターが地下と1階に出店して、ビルの上の階は穴吹のマンションにしようという話があってな。かなり盛り上がったんやけど、当時土地の値がどんどん上がっていって、土地の持ち主が他の会社に売ってしまってその話も消えてしまったんよ。その開発の話のときに、三津浜全体の活性化を目指して、僕もあれこれと関わっていたんよな。
そのときに、セブンスターの店舗開発部長と知り合って親しくなっていたからね。そんな人間関係があって、出店したんよ。それが平成16年(2004年)やな。

(インタビュー後編へつづく)

※この記事はインタビューに基づき執筆されたものであり、登場する内容はインタビュイー(回答者)様ご個人の体験や意見を反映したものです。