三津浜インタビュー

三津浜商店街を支えて60年

三津浜インタビュー Vol.2
株式会社 男子専科ヤング 代表取締役社長 
丸山常一さん 妻・喜美子さん

  • 丸山常一丸山常一
  • 丸山喜美子丸山喜美子
  • 宮内香苗宮内香苗

三津浜商店街に「男子専科ヤング」あり

宮内香苗

シャッターが下りたお店も多い三津浜商店街に、熟年女性が、おしゃべりしながら楽しそうに買い物をする婦人服のお店があります。もともとは男物の洋品店「男子専科ヤング」でした。
ヤングの店主、丸山常一(つねかず)さんは、長く商店街組合の会長を務められ、三津の中心的な存在です。「ヤングさん」と呼ばれて、地域の若手からも頼りにされています。病気になられてからは、お店は奥さんに任せておられるのですが、このところ体調が回復しておられると聞き、お店におじゃましました。
丸山さん、こんにちは、インタビューに来ました。よろしくお願いします。

丸山常一

いらっしゃい、こちらこそ、よろしくお願いします。

宮内香苗

お顔の色つやも良くて、病気に負けておられませんね。何歳になられましたか。

丸山常一

昭和12年1月1日生まれの88歳ですよ。(誕生日は元旦ですが)昔は適当なもんで、だいたい生まれた日の近くで「この日にしとけ」というくらいなもんやろ(笑)。
僕の両親はこちらの人でね、兄弟はみんなこっちで生まれているんやけど、父親が広島で仕事をしていたので、僕は広島で生まれてるんよ。戦争が激しくなって、広島からこちらに帰ってきたのは、小学校低学年くらいだったかな。
父は左官の棟梁をやりよったんやけどね、終戦前、広島で仕事をしていて、原爆で死んだんよ。直後に、おふくろが、広島まで父親を探しに行ったんだけど、結局は分からずよね。おふくろの話では、広島は、それはひどい状態だったそうやね。
当時まだ僕は小さかったので、親父の記憶はほとんどないんです。

宮内香苗

それはお父さんはお気の毒でしたね。お母さんもすぐに探しに行かれたとは、気丈な方ですね。
左官さんの息子さんの丸山さんが洋品店を経営するようになったのはどんな経緯だったのですか。

丸山常一

僕は12人兄弟の末っ子で、兄弟はそれぞれに、左官を継いだり、クリーニング屋をしたりしていたんよね。
姉は地元の灘口さんに嫁いで、この商店街で「ふくや」という洋品店をしていたんです。その関係で、姉の次男(丸山さんの甥)といっしょに「ヤング」という店を開いてやっていたんです。叔父と甥が同じ年代でいっしょに店をしていたということです。その後、姉の次男は「カトレア」という婦人服の店をして、僕は紳士物の洋品店をするんですよ。30代の頃ですよ。

宮内香苗

昔は子だくさんで、叔父と甥が同世代ということもあったんですね。

丸山常一

姉の長男の灘口慎之(しんの)さんは、僕の甥やけど、叔父の僕より歳がいくつか上よ(笑)。その人は、三津のことを何から何までよう知っていたんです。
慎之さんが三津浜小学校のPTA会長をしていたとき(昭和50年度)に、三津浜小学校の九十周年の記念誌を出してますよ。それがこれです。昔の三津のいろんなことが載っていておもしろいよ。貸してあげるから見てみてください。

宮内香苗

写真や資料がたくさんあって充実した本ですね。お借りしてじっくり読ませていただきます。この本が出た当時は、ここは賑やかだったんですね。

丸山常一

まあ、それは、賑やかだったよ。肩が触れ合うくらい人が大勢通ってたんよ。

市長さんや行政との良好な関係を

丸山常一さんのインタビューの様子

宮内香苗

丸山さんは商店街の会長さんをしておられましたが、いろいろご苦労もあったかと思います。それを聞かせてください。

丸山常一

僕が商店街の会長やったとき、市長に立候補したのが、今の県知事の中村さんやったんよ(1999年・平成11年・丸山さん62歳)。選挙だけは負けたらさんざんやからね。
それで僕は、誰が勝つだろうかといろいろ調べたら、中村さんが現職(田中誠一さん)を破って勝つに違いないと確信してね。僕は中村さんを押したんよ。当時、商店街の中心だった先輩たちは、もちろん、現職(田中さん)を押していたのにね。
それで、僕は、商店街の先輩のみんなに、現職を押せと叱られてね(笑)。でも、僕は変えなかったんよ。結果、中村さんが勝ったんよね。そしたら、先輩たちは中村さんに繋いでくれとお願いにきたね(笑)。そんな時代やった。

宮内香苗

昔の選挙の話はとても興味深いですが、ここには書けないようなこともありますね(笑)。書けるところだけにしておきますね(笑)。

丸山常一

そうやな。時代によって考え方も変わるからね。
ちょうどその頃やったかな、商店街にあったスーパーが火事になって、その後、荒れ放題になってたんよね。商店街の真ん中辺り(愛媛銀行の前)やから公園にしたらどうかと、当時の田中市長さんに、僕ら商店街の役員がお願いに行ったんよ。そのときの商店街の役員に、先代の風月堂さんと松谷さんがおってね。その2人と田中市長が同級生やったんよ。それで、話をしやすかったのもあってね。
次の中村市長さんにもお願いに行ったね。

宮内香苗

なるほど、市長さんや行政との関係をうまく取っておられたんですね。

丸山常一

それが良かったんよね。それで、媛銀の前に今の住吉公園ができたんよ。あれ、よくできたもんや。選挙がからんで、周りの先輩たちともいろいろあったからね。でも、先輩は先輩やからね(笑)。喧嘩して得なことは一つもないね。

宮内香苗

公園造成には丸山さんらの尽力があったんですね。完成までにはいろいろご苦労があったんですね。

丸山常一

選挙がからむと、いろいろあるんよね。僕としては、新しく商店街会長になって、商店街を良くしようと思っていたんよ。そうなると、やっぱり、ある程度行政の助けを得ないといけないからね。
昔、台風の時、商店街は浸水して大変なことがあったんよね。今は、市がカラー舗装してきれいにしてくれたからね。それから、住吉橋も高さを上げたんやからね。そんなことは、行政の力がないとできないことやから。いろいろとあったけど、要は、市と喧嘩したら得なことはない、これだけは間違いない。本当にそうよ。
ただ、商店街のためには力を借りないといけないけれど、かといって、政治家とベタベタするのもどうかなと僕は思うんよね。子分みたいについて行かんこっちゃ(笑)。

宮内香苗

なるほど、そのあたり勉強になります。市長さんや議員さんとのお付き合いは、しっかりとした考えをもっていないといけないようですね。

伊予鉄の坊ちゃん列車展示を三津浜に

宮内香苗

丸山さんは、以前から、坊ちゃん列車についても声を上げておられましたね。これは、松山西部地域開発協議会※でも毎回話題に上りますね。

丸山常一

そうそう、伊予鉄がぼっちゃん列車※を梅津寺に展示しているでしょ。あれをどうして三津浜に置かなかったんだろうね。もともと小説「坊ちゃん」の中に出てくる列車は、三津から古町まで走っていた列車やからね。
僕らは、伊予鉄本社に、何回も、三津にこの列車をもってきて展示してくれとお願いに行ったんですよ。社長が今の清水社長の前の佐伯要さんやったな。確か、関谷勝嗣さん(元国土交通大臣・三津浜在住)もいっしょに来てもらったことがあったなあ。そんな時代ですよ。

宮内香苗

三津を盛り上げるために、坊ちゃん列車を持ってこようとされたのですね。

丸山常一

最近、伊予鉄さんが、坊ちゃん列車(坊ちゃん列車を模した観光用市内電車)の運行に経費がかかるので、市に整備費を補助してくれと言ってるようやけど、ちょっと賛成できませんね。(行政を頼らずに)会社としてもうちょっとしっかりやってもらいたいけれどね。

宮内香苗

三津では、同じ考えをもっておられる方が多いようですね。私もそんな声をよく聞いています。

丸山常一

それとね、この辺に一番影響があったのは梅津寺よね。もうちょっと伊予鉄さんが力を入れてくれたら賑わいも続いたと思うけどね。
昔の梅津寺の賑わいは凄かったよ。海水浴場や遊園地があってジェットコースターもあったからね。

宮内香苗

私も小学6年生の時(56年前)、八幡浜から修学旅行に来て、初めてジェットコースターに乗りましたよ。梅津寺は賑やかな通園地で、とても楽しかった思い出があります。

丸山常一

海に突き出して納涼台もあったんよ。冬は外して、夏になったら組み立てていたんよね。梅や桜もきれいだった。梅や桜の季節は、電車も満員になりよったね。
もっと昔になるけれど、僕らが子どもの頃は、泳ぎに行くのは、渡し舟で港山へ渡って、そこから、裏道を通って歩いて行ってたんよね。友達といろんなこと話しながら歩いて行くのは楽しかったよ。
海水浴は、三津と梅津寺と両方行ってたね。良き時代じゃわ。

※松山西部地域開発協議会 ▲
三津を中心にした松山西部地域の経営者らが、地元の発展・活性化を目指してボランティアで活動する団体。丸山さんも理事を務めている。
※坊ちゃん列車 ▲
明治21年から67年間、市民の足として親しまれ、夏目漱石の小説「坊ちゃん」の主人公が乗ったことから、いつしか坊ちゃん列車という愛称で親しまれるようになった。
当時のぼっちゃん列車のうち、機関車は鉄道記念物に、さらに、客車を含めては県文化財に指定されている。1号機関車の実物と客車のレプリカは梅津寺公園に展示されている。現在、松山市駅・道後温泉間を、観光用として復元された坊ちゃん列車が走っている。
もともとは蒸気機関車であったが、現在の車両はディーゼル車両である。車掌は当時を思わせるような出で立ちで観光客を楽しませている。(伊予鉄道ホームページをもとに)

商店街の衰退と新たな賑わいづくり

宮内香苗

梅津寺や三津浜商店街が賑わっていた時代は商売もおもしろかったんでしょうね。

丸山常一

そんな時もあったね。商店街は向こうが見えないほど人が歩いていたからね。

宮内香苗

賑やかだった三津浜商店街ですが、だんだんとお店の数が減って寂しくなっていきましたね。どこの町の商店街も同じような流れですね。

丸山常一

これはもう、時代の流れというか、しょうがないとこがあったね。どうにもならんね。こればかりはしょうがないわいね。僕らも店を維持して食べるんが精一杯よね(笑)。

宮内香苗

今の野志市長になって、三津浜の活性化にいろいろ力を入れておられるようですが・・・

丸山常一

三津には、魚市場という資源もあるんじゃから、それを活かすのが行政の仕事やからね。私らからすればまだ不満なとこはありますね。でも、市の職員さんは三津に足を運んでくれて、僕の所にもよく話に来てくれてましたよ。
市役所が、チャレンジショップの取り組みを始めたんよ。僕は、ここと、この向かいと2軒の店をしていたんだけど、商店街が静かになってからは向かいの店の方は閉めてたんよ。その空き店舗をチャレンジショップとして借りたいと言ってくれてね。そこで、今までに、自転車店、カフェ、木工の店、香りの店、イタリアンレストランなど、いろいろ入っては卒業してくれたんよ。
僕の空き店舗が、少しでも賑わいづくりにお役に立ってよかったなと思ってますよ。

宮内香苗

今はお絵描き教室が入って、子どもや若いお母さんが集っていますね。チャレンジショップ以外にも、商店街に若い人が入ってきましたよね。丸山さんもお世話されたようですね。

丸山常一

「練り屋正雪」さんにしても、「田中戸」さんにしても、店舗を探している時に相談に来てくれて、僕がお世話をさせてもらったんよ。

宮内香苗

若手は、何か問題があればヤングさんの所に相談に行くというのを聞いています。

丸山常一

いやいや、しょうがなしに来てくれとるね(笑)。ここは三津にはなくてはならん商店街よね。まあ、いろんなことがあったけど、僕は10年ほど前に癌になってね。膀胱も取られ何もかも取られておなかの中は空っぽなんよね。人生もう終わったと思ったね。僕の時代は終わったなとね。
今は、商店街組合の会長は、「N’sキッチン」の小池君が引き継いで頑張ってくれてます。

宮内香苗

三津浜は注目されている地域になりました。私は、新居浜や西条などで話を聞く機会が多いのですが、三津に住んでいると言うと「三津は活性化してすごいですね」と言われるんです。

丸山常一

実際はそれほどでもないけどね(笑)。今、人気のお店がいくつか出てきてマスコミが盛んに取り上げてくれるからね。イベントもやってるしね。

宮内香苗

移住してくる人も増えましたね。

丸山常一

話に来てくれたら協力はするんじゃけどね。ここは、地域的には面白いとこなんよね。だけど、(お店がやっていけるかどうかは)経営者の感覚の問題やからね。
今の時代は、僕らが若い頃とは違って、誰でも何とかなるという具合にはいかんからなあ。でも、ここは、地域的には本当におもしろいとこやから、あとは、経営者の感覚、やり方の問題よね。

お店を長く続けるには、正直に真面目に

宮内香苗

長くここでやってこられた丸山さんですが、世代間のギャップのようなものは感じておられますか。

丸山常一

それは、どこでも、あることよ(笑)。

宮内香苗

商店街を次へと繋いで繁栄させようと思ったら、そんな世代間のギャップ、感覚の違いをなんとか、、、

丸山常一

それが、一番難しい(笑)。まあ、ここは、(かつて繁盛したという)下地があるんだから、要は、ここで何かやろうという経営感覚だけやと思うんよね。生かせばね、面白いとこよ、ここは。
僕も、ここでゼロからスタートして、なんとか、二つの店を持つようになったんだから。

宮内香苗

長くお店を続けていくためのコツはありますか。

丸山常一

それはもう真面目に正直にやること。それしかない。
上手いことやって儲けたろうという根性では、絶対に商売は長続きせんね。やっぱり、人間性が大事なんです。儲けは後から来るもんやからね。人間性に首傾げるような人間で成功した人は、僕らの付き合いの中でもおらんね。必ず自分に跳ね返ってくるよ。それだけは、絶えず思ってきました。

宮内香苗

人間性のお話が出た後に、ミーハーな言い方で恐縮ですが、私が初めて丸山さんとお会いしたのは20年近く前になります。「うわ、ダンディで優しそうな方」と思ったんですよ(笑)。お洋服のセンスにプラスして人間性がお顔に出ていたんでしょうか。

丸山常一

それは、ありがとうございます(笑)。

宮内香苗

よく、三津の人の人柄を、外から来る人は「外から入ってきた人を受け入れることができるし優しい」と言いますが、それはどう思われますか。

丸山常一

さあなあ、それだけは、よう言わんなあ(笑)。

宮内香苗

まあ、人それぞれ色々なんでしょうかね(笑)。

商売は夫婦で力を合わせるのが基本

宮内香苗

さてさて、私が思うに、やっぱり、お店をやっていくには奥さんの力も大きいなと・・・

丸山常一

それは無いとできんわな。特に、うちらのような零細企業の場合は、女房が主体ですよ。

宮内香苗

古くからのお店で、今も夫婦で頑張っているお店は・・・

丸山常一

商店街では、もう、うちと「楠原金物屋」さんと、お弁当の「味味」さんだけやね。

宮内香苗

若手のいいお手本になりますね。丸山さんの奥さんの出身はどちらなのですか。

丸山常一

うちの女房は、新潟と長野の県境の町で生まれ育ったんよ。半年は雪の壁の中で生活する所よね。
それは、それは、雪の深いとこなんよ。僕も冬は1回しか行ったことないよ。

宮内香苗

新潟の女性と、どこで出会われたんですか。

丸山常一

女房は東京に出て衣料の問屋さんに勤めていたんよ。その会社に、たまたま、さっき話した灘口慎之さんの妹が勤めていたんよ。僕から言うたら姪やね。その姪が「いい人がおる」と紹介してくれたんよ。

宮内香苗

姪が叔父さんにお嫁さんを紹介するというのは珍しいですね(笑)。丸山さんは、この人ならと思って、東京に居た奥さんを引っ張ってきたということですね。

丸山常一

まあ、そういうことよね(笑)。

宮内香苗

奥さんも生まれ育ったとこから遠く離れた松山に嫁ぐというのは勇気がありますよね。

丸山常一

ま、どういう気持ちで来たんかは分からんけどな(笑)。こっちに来ても、そんなに不自由させたとは思わんのやけどね。

宮内香苗

だいたい男性はそう思っていますね。奥さんの本心はわかりませんが(笑)。

丸山常一

あはは(笑)、まあ、そうやろな。僕が癌になった時は、女房は頑張ってくれたと思うよ。夫婦で力を合わせるというのは、絶対基本よね。

宮内香苗

奥さんは若々しいですよね。

丸山常一

そりゃ、ありがとう。僕が88、女房は7つ下ですよ。雪国から来たので、(気候の良い)ここに来て、ある面では良かったと思います。

宮内香苗

子どもさんは何人いらっしゃいますか。

丸山常一

娘が2人いるんよ。2人とも嫁いで、一人は地元、もう一人は大洲におる。二人とも、まだ仕事をしていますよ。まあ、子供は子供の世界やけんね。とやかく言わん方がええな(笑)。

宮内香苗

奥さんの喜美子さんにもお話を伺います。
私も、いろんなところでインタビューさせてもらってますが、多くを語らずとも、やっぱり、奥さんの力が大きいんですよね(笑)。

丸山喜美子

いやいや、私はそんなことはないんですよ。

宮内香苗

全く知らない土地に来られて、いろいろと大変なこともあったのではないかと思いますが・・・

丸山喜美子

私は、何事もあまり苦にしないほうですから(笑)。流れに逆らわずに、やってきたといいますか・・・

宮内香苗

かつては、ヤングと郵便局の駐車場で、商店街組合や船手組や西部地域開発協議会が協力して行っていたバーベキュー大会が大盛況だったと聞いています。メンバーの奥さん方も協力しておられたようですね。

丸山喜美子

そうそう、賑やかにやっていたんですよ。お客さんが増えて、道路の方にまでテーブルを並べるようになってね。
それでも手狭になって、その後、媛銀前の住吉公園でしていたんですよ。ちょうど、向かいのうちの店舗が空いていたので、イベント後は、そこに、机やゴミなどを入れておいて、皆さん協力して、数日かけて片付けたりしていましたね。みんな若かったですから元気でしたね(笑)。

宮内香苗

そのバーベキュー大会が、今は、魚市場の広い駐車場で行われるようになったんですね。毎年盛況ですよ。

地元を思う若手に期待して

宮内香苗

ここは、熟年女性のサロンのようになっていて、楽しそうにお買い物やらおしゃべりやらしている様子をよく見ます。向かいにはチャレンジショップもありますし、通りの両側が揃って賑やかなのは、商店街の中では、今はこのヤングさんの所だけです。貴重な一角です。
丸山さん、この商店街は今後どのようになっていくでしょうか。

丸山常一

これからは、よくなる一方やと僕は思ってます。楽観的過ぎるかな(笑)。少しずつ良くなっていくよ。そう心配したことはないよ。

丸山喜美子

お父さんはこの商店街がとても好きですからね(笑)。

宮内香苗

お話していると、それが感じられます。こうして、丸山さんが、ずっとお店を続けておられたので、新しくここでお店を開いた人は、丸山さんを頼りにしていたと思います。そういう存在がないと、古くからの人ともつながらないですから。

丸山常一

地域自体は、どこもそうだとは思うけれど、基本的にはよそ者を排除するという一面を持っているからね。だから、入ってくる人も、この地域の力になるという、そんな感覚を持っておかないといかんのよね。それが大事。
今、繁盛している、じゃこ天の酒井君や、パンと喫茶の小池君や、かき氷で有名になった田中君や、みんな、その素質があるからね。僕は楽しみにしてる(笑)。

宮内香苗

三津浜商店街の人気店は、丸山さんがお世話してきっかけを作ってこられましたね。その後も、陰になり日向になりで、若手を見守っておられますね。
商店街が賑わっていた頃、寂しくなってきた頃、そしてまた賑わいが戻ろうという今日この頃、丸山さんはずっと三津浜商店街の中心で活躍されました。どうか、これからは、ゆったりと療養されながら、若手がこの商店街を盛り上げていくのを楽しんでください。
今日は、いろいろなお話をお聞かせいただき、本当に、ありがとうございました。

※この記事はインタビューに基づき執筆されたものであり、登場する内容はインタビュイー(回答者)様ご個人の体験や意見を反映したものです。