三津浜インタビュー

三津浜花火大会の歴史をひも解きながら
三津浜活性化の道筋について語り合う(前編)

三津浜インタビュー Vol.4-1
松山西部地域開発協議会会長 村上純さん
同副会長 河野隆幸さん
同副会長 渡部哲さん

  • 村上純さん村上純さん
  • 河野隆幸さん河野隆幸さん
  • 渡部哲さん渡部哲さん
  • 宮内香苗さん宮内香苗さん

戦後すぐに始まった三津浜の「港まつり」

宮内香苗

三津浜と言えば、花火大会が有名ですが、確か、30年ほど前は、南海放送サンパーク(松山市井門町)で行われていたと記憶しています。三津浜で行われるようになって、いつの間にか中四国有数の大きな花火大会になっています。その三津浜花火大会は、地元の「港まつり振興会」を中心にして、ボランティアの皆さんの力で運営されていると聞いています。
今日は、かつて「港まつり振興会」(以後、会話の中では「振興会」と略していることもある)の会長や副会長を務めてこられた3人の方々にお集まりいただきました。
三津浜花火大会のことを中心に、三津浜活性化に取り組んでこられた「松山西部地域開発協議会」(会話の中では「西部開発」)や「平成船手組」(会話の中では「船手組」)の創設当時の活動についてもお聞かせいただきたいと思います。さて、三津浜の花火大会はいつごろから、行われているのでしょうか。

河野隆幸

三津浜では「港まつり」がずっと行われていたんです。戦後、商店街振興を図って地域を元気にしようと始まったようですね。昔は3日間やってましたね。その港まつりで、小規模ですが花火大会もやっていたんですよ。今は花火大会だけが大規模になって残っています。
最近ではコロナの時に2年間中止、ずっと以前にも天候の影響で中止された年があったような気がしますが、今年(2025年)で73回ですから、昭和25年前後に始まったということですね。ちょうど私が生まれた頃ですよ(笑)。昔から、三津浜に「港まつり振興会」という組織ができていました。

渡部哲

私らが若いときには、おでんなどの屋台もいろいろ出て、踊り連も出て賑やかでしたよ。

村上純

花火を上げる場所は今とは違っていましたね。僕が子どもの頃は、ちょうど築港の先や造船所の前から上げていました。仕掛け花火は、水産市場の前でやっていましたね。

渡部哲

港まつりは、いつの間にか、屋台も出なくなって、踊り連もなくなっていきましたね。いつ頃までやりよったかなあ・・・

河野隆幸

いつ頃までかなあ・・・でも、花火は続いていましたね。

宮内香苗

そうだったんですね。「港まつり」が戦後すぐから行われていて、その一環で花火大会も行われていたと。場所が今とは違っていたようですが、今の所に移ったのは、いつ頃なのですか。

渡部哲

そのきっかけが、松山市が招待した帆船「日本丸」の三津浜外港入港です。平成5年ですね。そのときは、三津の地元団体の企画ではなく、主に三津の外の人たちが出店してイベントが行なわれたので、地元の関わりはあまりなかったんです。
せっかくの盛り上がりを三津の活性化につなげようということで、地元として、その三津ふ頭の広場で港まつりを行おうということになったんです。地元で企画して、商店街や団体など大勢の皆さんが協力して盛り上がったんですよ。すごい人出でした。ちょうど、うちの先代(三ツ浜汽船株式会社先代社長・渡部優氏)が「港まつり振興会」の会長の時でしたね。

「松山西部地域開発協議会」と「平成船手組」の発足

「まつやま西部」平成8年8月31日発行

「松山西部地域開発協議会」機関誌

宮内香苗

当時は、動ける若い人がたくさんいたのですね。

渡部哲

準備・運営・片づけと、活躍していたのが「ふるさと三津浜を考える会・青年部」の人たちでしたね。その後、その青年部の一部のメンバーが、新たに「平成船手組」を立ち上げたんです。

河野隆幸

そのころ、「恵美須神社」も新しく建て替わりましたね。地域活性化の意味もあって、当時の「松山西部地域開発協議会」のメンバーが中心になって建築資金を集めたんです。

村上純

恵美須神社が建て替わったのは平成8年ですね。西部開発は平成3年に発足してます。船手組は平成6年発足ですね。

宮内香苗

その当時、次々と地域活性化の動きがあったのですね。恵美須神社改築については河野さんのお父様(河野興産株式会社先代社長・河野幸男氏)のお力が大きかったと聞いています。皆さんの「松山西部地域開発協議会」は、結成35年になったということですね。

渡部哲

もう35年経ったんですね。
恵美須神社が建て替わった平成8年当時はとても盛り上がっていました。港まつりでは、長さが5メートルもある張り子の鯛「御鯛神(おたいじん)」や、それよりは小ぶりの「小鯛神」を作って、大漁旗で作った法被(はっぴ)を着て、みんなで練り歩いたんです。その御鯛神に灯りを入れて夜は海に浮かべたんですよ。
イベントもいろいろ企画してあって、ウナギのつかみ取りやサッカーのPK合戦や車椅子のスリーオンスリーのバスケットなどにたくさんのチームが参加しました。

宮内香苗

当時の西部開発の機関誌「まつやま西部」でその記事を見つけてびっくりしたんです。子どもから大人まで楽しめるいろいろな催しがあったんですね。音楽ライブや子どもたちのブラスバンドパレードはあるし、海外の民芸品の「コンテナバザール」や中国やインドなどの「グルメ屋台」なども出ているし。
先日、元テレビ愛媛のアナウンサーだった白石浩二さんとたまたまお話しする機会があったのですが、当時、三津浜の活性化に深く関わっておられて「いろいろな取り組みをしましたよ」と、懐かしそうに思い出話をしておられました。

村上純

そのころ、白石さんのお義父さんの鶴居諭さんが、振興会などの会長をしておられたこともあって、白石さんが中心になってイベントの企画などをされていたんですよ。昼間はそんなイベントをして、夜に花火大会をしていました。

渡部哲

船手組がいろいろ面白いことを企画していたんですよ。
トラックの荷台を岸壁に付けて、そこに瀬村製材さんが木を突き出すように設置して、そこから飛び込んだり、ベニヤ板にトラックのチューブを付けたボートを作って手漕ぎのレースをしたり・・・

宮内香苗

かなり斬新なことをされたんですね(笑)。
船手組発足のいきさつについては、三津浜インタビューの第1回で、藤岡さんにお話ししていただきました。

渡部哲

私も、船手組の創立からのメンバーです。
船手組は、政治的にどこにも所属することなく、校区の区分を超えて、三津浜活性化のことを自由な立場で、ボランティアでやっていこうということだったんです。でも、その頃は、船手組には資金がなかったので、西部開発の地域振興のための予算を使って活動したんですね。西部開発としても予算を有効に使いたいですし、両者のコラボが出来上がっていったんです。

宮内香苗

西部開発と船手組の協力体制はそこからずっと続いているんですね。

渡部哲

一方で、西部開発の有志は株式会社も立ち上げたんですよ。協議会として絵を描くのですが事業のリスクを負うことは難しいので、有志が出資して「西部開発株式会社」を設立して事業化を図ったんです。株式会社の社長は河野幸男さん、役員として私の父も名を連ねていましたね。

西部開発協議会が株式会社を作って事業に取り組む

宮内香苗

西部開発株式会社はどのような事業を行ったのですか。

渡部哲

株式会社を作ったきっかけは魚市場の活性化です。三津の魚市場が一般開放しないという考えだったので、それなら、魚市場には関係なく、西部開発株式会社が場外市場を作ってはどうか、そうすれば、魚市場もだんだんと開放する流れになって、三津の活性化につながるのではないか、そんな構想だったんです。この場外市場を作ろうとしたのが、西部開発株式会社の最初の事業でしたね。
ところが、そうこうするうちにO-157が流行して、その場外市場構想は頓挫するわけですよ。

宮内香苗

西部開発株式会社として、他にも事業を起こしたのですか。

渡部哲

いろいろな取り組みはあったのですが、なかなか難しかったようですね。そこで、話が港まつりに戻ります(笑)。港まつり当日のイベントや花火を見るために、パイプで組んだ桟敷席を設置したんです。

河野隆幸

そうでしたね。その管理を西部開発株式会社が行って、桟敷席を観客に売ったんです。港まつりは2日間行われたので、お祭り広場では、先ほど話が出たように、昼間はいろいろな催しをして人がたくさん来ていましたからね。

宮内香苗

当時の三津に勢いがあって、運営する人材も豊富だったということですね。今の花火大会運営の原点がこの時期にありますね。

河野隆幸

その当時、鶴居さんが「港祭り振興会」の会長をし、「西部開発株式会社」の社長と「西部開発協議会」の会長もしていました。確かに盛り上がっていたのですが、西部開発協議会が考えるプランは、お金のかかるプランばっかりだったように感じました(笑)。
西部開発株式会社の手に負えるようなプランではなかったと、私は感じていましたね。総会の席で、「このままのやり方で、会費や資金を集めるだけなら、もう、解散したらどうか」と言ったことを覚えています。

宮内香苗

もちろん私腹を肥やすために活動していた人はおられないでしょうし、斬新な取り組みが行われたことは注目に値しますが、各組織が独立して活動しながら、多くの人が納得できる運営をするのは、現実的には難しいことだったと・・・

渡部哲

かなり活発な活動が行われていましたが、結局、組織内で考え方の違いが出てきたので、株式会社のほうは解散するんですね。

宮内香苗

その時代は、当時の勢いある経営者の皆さんが、三津の活性化に向けて、熱い思いで動いておられた時代だということですね。

渡部哲

そうですね。ちょうどそのころ、ファズ(FAZ・アイテムえひめ)が出来上がるんですね。ウォーターフロント開発ということで、県も市も力が入っていました。それに、協力したのが、西部開発や「松山西ロータリークラブ」です。

河野隆幸

西部とロータリーのメンバーは重なっている人が多かったんです。

渡部哲

ロータリーもその頃が全盛期でした。勢いがありましたね。

港まつりの花火大会に松山まつり前夜祭の花火大会を合わせて

「まつやま西部」平成14年7月20日発行
「まつやま西部」平成14年7月20日発行

「松山西部地域開発協議会」機関誌

宮内香苗

すごい時代だったんですね。ここからは花火大会に絞ってお話を伺っていきます。
三津の「港まつり」の花火大会は、戦後すぐから、港まつりの晩にずっと続いていた一方、松山市内では「松山まつり」の前夜祭として、南海放送サンパーク(松山市井門町)で花火大会が行われていたんですね。それが、様々な事情で開催が難しくなって、三津浜の花火大会といっしょになったのだと聞いています。
「南海放送50年史」にそのいきさつについての記述がありましたので紹介します。

※「南海放送50年史」引用

松山の花火大会は、PL教団が1953年(昭和28年)から3年間開催したのが始まりだった。その後、1971年(昭和46年)になって重信川出合橋付近を会場にして再開し、1972年(昭和47年)から松山まつりの行事に組み込まれて松山市民の夏の楽しみになっていた。しかし、1980年(昭和55年)中止された。

市民のあいだからは、花火大会の復活を望む声が強く、わが社では、1983年(昭和58年)、創立30周年にあたり、この花火大会をサンパーク南側の重信川河川敷で行う計画を立てた。同時に家畜業者をはじめ周辺民家への協力依頼や、交通アクセスなどの課題を慎重にクリアした。門田社長を大会会長に、細田専務を委員長として松山まつり前夜祭花火大会の実行委員会を組織し、花火大会の演出、また見物席や駐車場の確保、観客輸送と、それに伴う交通規制などの問題に取り組んだ。地元の了解も得られたことから1983(昭和58)年8月10日、松山まつり前夜祭花火大会として実施された。当日は、陽の高いうちから弁当付き園内観賞券を持った見物客がサンパーク行きの特別バスで会場に詰めかけた。また堤防付近も大勢の人であふれた。

炎天下、150人の従業員が作業を分担、演出、進行、クライアントの対応、さらに渉外、交通整理や交通案内などに汗を流した。1時間に3,000発の花火が夜空を焦がした。松山まつり前夜祭の祭典に集まった観客は15万人にのぼった。

こうして松山市民に親しまれてきた花火大会であったが、その後、住宅が花火打ち上げ地域に迫った。1997(平成9)年2月の高速道路開通以降は、松山南警察署より、道路が煙にまかれ交通渋滞を起こし、交通事故にもつながりかねないとの警告を受ける状況になった。そのうえバブル崩壊後の経済環境の悪化で協賛社の数も減り、大会の維持管理に支障をきたしていた。

松山市では、三津浜でも夏の港まつりの一環として花火大会が行われていた。2000(平成12)年秋、三津の「港まつり振興会」が市の意向を持って来社、松山市の花火大会を一つにまとめ、三津浜へ移行したいとの提案がなされた。関係機関と協議した結果、まつやま花火大会をより盛大なものにするため、会場を三津浜へ移し開催することになった。18年間続いた重信川河川敷での花火大会は2000(平成12)年第18回をもって幕を閉じることになった。わが社では三津浜の港まつり花火大会を盛り上げるため、事前告知など広報活動での協力を続けている。

渡部哲

三津浜で戦後すぐから行われていた小規模な花火大会に、サンパークの花火大会が合併されたんです。その分の市の予算もこちらに当てるということでした。

村上純

2001年(平成13年)に、私が「松山港まつり振興会」の会長をしたときのことでした。松山市から話があって、南海放送の役員さんとも話し合いをしまして、三津の花火大会にサンパークの花火大会を合わせることになったんです。三津の港まつりの花火大会で言うと51回の時です。

宮内香苗

それは、大きなできごとですね。それまで、三津では花火大会は戦後すぐからずっと続いていたわけですし、「港まつり振興会」という組織もあって、運営母体はすでにしっかりとあったということですから、松山市としても、南海放送としても、ある意味、渡りに船だったのではないでしょうか。
「南海放送50年史」には「まつやま花火大会をより盛大なものにするため、会場を三津浜へ移し開催することになった。」と書かれています。その時には、「まつやま花火大会」という言葉が使われていますが・・・

村上純

どうして、三津浜花火大会という名前にしたかというと、こんないきさつがありました。
当時、開催のためには、とにかくお金を集めなければいけないということになったんです。港まつり振興会の事務局長だった藤岡敏明さんと相談して、道後の大和屋の奥村武久社長にお願いに行ったんですよ。というのは、私の会社(松山海陸運送株式会社)が松山市の観光協会の会員だったんですが、その時の会長さんが大和屋の奥村社長だったんです。私も奥村社長も商工会議所の議員だったこともあって話ができる関係でした。それで、藤岡さんといっしょに奥村社長を訪ねていったんです。
相談しましたら、「松山観光協会の名前で、花火大会のための寄付を集めてもいいですよ」と言ってもらったんです。

宮内香苗

なるほど、花火大会をするには先立つものがいりますからね。

(インタビュー後編へつづく)

※この記事はインタビューに基づき執筆されたものであり、登場する内容はインタビュイー(回答者)様ご個人の体験や意見を反映したものです。